◆須藤萌子の銅版画解説 『STONE no.8』 オンライン常設展-Square-にて展示中

2022年10月7日

『STONE no.8』
『STONE no.8』

博物館でみつけた丸い石

なぜ、遠足先でこの「石」を買ったのかはわからない。

砂漠の薔薇

名前の響きと、スライスしたアーモンドがみっちりとくっついているように見える形が、おもしろかったのかもしれない。

遠足の悲哀

みっちりと詰め込まれるといえば、学校行事の遠足だ。

動物園や科学博物館で、ぞろぞろと順番に見て回るのは不思議な気分だ。
長く立ち止まっていたら邪魔になる、ロビーの床や、入り口近くに、大勢で体操座りをするのが子供心に恥ずかしかった。

遠足にはグループ分けがつきものだが、そんな時、わたしは難儀していた。
好きな子同士で組むとなり、誰かが余ると、学校独自のメソッドによる組み分けが待っていた。
(独自メソッドといっても、無理やりどこかのグループへ詰め込まれるにすぎないのだが。)

生徒も難色を示しているのだから、担任教員はもっと頭を抱えていたに違いない。
わたしと組まされた子は、昼食になると、本当に仲の良い友達がいるグループへお弁当を食べにいってしまう。
先生に訴えても、肩をすくめて微笑むだけだ。

これは、2重に傷つく

大人からお願いされ、聞き分けの良い子のグループへ入れられる側にも、
問答無用で受け入れる側にもなったことがあるゆえ、双方の悲哀はなんとなくわかる。
わかるだけに、こんな思いをするなら「ご飯くらいひとりで食べたい」とも思う。

その日の遠足で、お土産に買った「砂漠の薔薇」は、今でも部屋にある。
あの頃の自分が、
「この遠足は楽しかった」
と、思いたいがために選んだのかもしれない。

大人になっても変わらない

大人になるにつれて、そんな悲哀から逃れられると思っていたが実際はそうでなかった。
逆に、人々が集まるところへ放り込まれたとき、ひとりで空間の端っこにいる人を見つけるのがうまくなってきた。
そういう人の匂いを嗅ぎつけるのがうまくなったところで、自分の匂いは薄まらないのだが。

その人は、かまってほしいとか、人や場所を品定めして一目散に向かっていくことはしない。
即席の「じんみゃく」・「えにし」・「ちーむ」とは、無縁である。
ふらふら、ふわふわと原始の藻のように空間を揺蕩う(たゆたう)。
なんとか居心地のいい場所を確保するため、たどり着くのは会場出口付近か、部屋の隅だ。

そんな人が、空間の端々に点在している。

無理やり誰かと組んだり、組まされたり、また、そうするために近づいてきたりということはない。
輪の中に居ても、互いに目の端に入れつつ、無言でうなずいたり、肩をすくめたりするだけだ。

石や山、星を、宇宙に全部浮かべよう

私が勝手に名付けている「揺蕩う端っこの人々」は、どこか人智を超えた空気をまとっている。

彼らが静かに佇んでいる様は、石というか、山というか、星である。

彼らは星の住人、というか、星そのものだ。

まったく想像もつかない文明や信仰、思考をもつ「人=星」が、同じ空間に浮かんでいる。
極々たまに、彼らは近づいたり、遠ざかったり、流れゆく同じ景色を見送ったりする。

宇宙のなか、シンプルに瞬き、答えのない交信をするのはどんな気分なのだろう。

寂しいかもしれない。
寂しいよりも、
「あ、あいつはひとりで端っこにいる、グループに入れてあげなくては。」
などと発見されるほうが、今は気まずいのだろう。
(宇宙に端っこがあるかどうかはわからないけれど)

そういう、まだ「発見されていない星たち」が、
自分のまわりに浮かんでいる様子を表してみたかった。



尚、stone.シリーズは、現在も増え続けている。

作品購入は以下のサイトから
作品ウェブサイト

須藤萌子の銅版画、ドローイング作品を紹介するサイトです。こちらもご覧ください。
『須藤萌子 版画とドローイング』