◆銅版画作品を解説・・・その意味とは? 作品に込めた意味を説明できないとダメなのか?

2022年8月25日

「作品について説明する」ことのモヤモヤ

ホームページ上で銅版画のオンライン展『Square』(2022.4.15.fri.~5.15.sun.)を開催した。


「この部屋に、なにか1枚飾ってみる」

という、のんびりとしたコンセプトのもと、暮らしのなか、誰かによりそう1枚が見つかればよいな、とはじめたオンライン展。
画面越しで見てもらうということに慣れたような、そうでないような。
ステイホームから、ゴーギャラリーへ。
お気に入りの1枚を見つけてほしい、という期待を込めて。

これから、私自身がセレクトした銅版画の紹介をしていきます。



でも、その前に「作品の説明」についてのモヤモヤを…

作品に込めた意味を説明できないとダメなのか?

作品に込めた意味や、制作に至るまでの経緯を説明するというのは、とても苦しく居心地が悪い…
と、私は個人的に思っているけれど、どうなのだろう。

学生時代に、

 「コンセプトは?」
 「使用技法は?」
 「これを描くにあたって工夫したところは?」

と、繰り返し説明を求められた。

それは、多感で移ろいやすく未熟な時期、
 
 ・己がなにから影響を受けたのか
 ・参考資料はどうやって集めたのか
 ・実際にどれだけ観察したのか
 ・目の前につくられたそれはオリジナルといいきれるのか、何かの模倣なのか

表現の根幹を自覚させるためのトレーニングであった。

…と、納得するのに10年以上かかってしまった。


当時、日本の学生はコンセプトが話せない、または話すのが下手だ。
欧米では自分の作品について説明できない学生はいない。
向こうは分厚いポートフォーリオ(過去の作品をまとめたもの)が作品の床に置いてある。
とにかく話せないとお話にならない。

…と、周りの大人たちが言っていた。

そんな言葉のうわべだけを掬い(おバ…素直だったものですから…)

「日本の学生ってまとめられた。」
「欧米ではって?どこの美大?」

…と、斜に構えつつも

「え、そうなんだ。どうしよう。」
「いつでも説明できるようにしなければ」

…と、怯え身構える時期があった。

実社会とのギャップ

しかし、学生時代を終え社会にでてみれば、どういうことだろう。

「向こうから聞かれる」

という状況にでくわすことは稀というか、ほぼない
相手に興味を持たれ、アイデンティティを求められる機会は、無いに等しい。

だから、個展で発表するときは自分から行くしかないと思っていた。


ある個展の搬入日。
準備万全、分厚いポートフォリオや過去作品の冊子を抱え、会場へ臨んだ。

そんな私へ、ギャラリーのオーナーからの一声。

「展示作品以外のこれらをすべて片づけましょうか。」

このとき、続いた一声を忘れない。

「見る人に、余白を残してあげてね。」


また、在廊中に、自分の作品を鑑賞しているお客様のそばに寄りすぎて

「そんなにそばにいられちゃあ、ゆっくり見られないよ。」

…と、やんわり言われたこともある。


自分がギャラリーに行ったときに、されたくないことを相手にしている
そのことに気づいて、顔から火が出そうだった。

聞かれたら答えられるのが良い

そんな経験からか、作品に込めた意味や制作に至るまでの経緯を説明することは

おおむね正解で、かなり野暮

であると個人的には思っている。


美術館や教育施設のように、説明キャプションがないと不安な方、作品を見る前に説明を求める方もいる。
ギャラリーによっても、展示スタイルがある。
こうしたほうがいいのかな?と考えることの積み重ねだ。

それでも答えられる方がいいのだと思う… 聞かれたら。


作る側からすれば、言葉にならないイメージや衝動をとらえた瞬間をすくいあげて作品にする、のである。
それを、言葉に再構築して説明してよ、というのはとても難しいことだ。

ただ、後々取材記事などで文字に起こされたとき、こちら側の言葉が足りなくて

「そういうことを言いたかったわけじゃない。」

とならないために、プレスリリース(広報や宣伝媒体に提出する紹介文)や、「これだけはブレずに伝えてほしい」という気持ちを用意しておくといいのかもしれない。

わが子(作品)が誤解されないためにも、
名前(題名)や、年齢(制昨年)、名づけの経緯(込められた願い)、
説明されるときに使ってほしくない言葉、など。

幾度か実践しているうちに、どんどん伝え方も的確でシンプルになっていく。
今後の制作の兆しも見えてくる。
やって損することはない。

〈話し言葉〉を〈文字〉にすると怪しくなる危うさ

「パッションのまま」「降りてきたイマジネーション」を「トランス状態」で描きました。

「モチーフは特にありません。」

て言いたくなっちゃう時もある。(あるのか?)

話し言葉では気にならないけれど、文字に起こされて広められたら、作品や作家自身がちょっとうさん臭くなってしまう。
雄弁に語る作家がうさん臭くなってしまうのを、わたしは密かに確認している。
多くの場合、作家側がサービス精神旺盛なだけでなんら嘘を言ってるわけではないのだ。

作家は制作するのが何よりも優先事項であるし、仕事としているならなおさらである。
だから、言葉に起こすのは評論家(または、責任をもって言葉を扱う仕事をする人)に任せておけばいいというのもわかる。

それでも。たとえ苦手でも、自分の仕事を誠実に記録しておくのは大事だ。

そうなると、やっぱり説明はあったほうがいいのか…と、ふり出しに戻るのであった。

作品の半径5メートル以内のお話

そもそも…私は作品の説明をしたいのだろうか。

説明するために作品を見返してみても、作ったときの気持ち、感情、動機を確かめるのは難しい。
果たして、出来上がったものが想像していたものと同じだったのか。

今、ふり返って、伝えようとしても、それは他人の言葉を借りて説明するようなものである。

自分に話せるのは、作品の周りに漂っているたくさんの「表現の素」だ。
それは、作品の半径5メートル以内にあると思う。

はっきりと見えるものではなく、ぼんやりとしたもの。
ぼんやりとしたものを、いくつも重ね合わせることで、ようやく見えてくるもの。

自分に見えないものを、他人に見えるように話すことはとても難しい。
それなら、ぼんやりとしたままのものを話すしかない。

それは、自分の感性に訴えかけてきた出来事になる。

ようやく作品の説明へ

今回のオンライン展『Square』に出品した5作品のお話しです。

作った当時のことを思いだしながら、
作品の半径5メートル以内をかき分けたり掘り返したりしながら、

なんてことはないけど、自分にとっては大事件だった話

を綴りました。

作品1 「羽化の部屋」

作品2 「海の骨」

作品3 「王国の春」

作品4 「薊の家」

作品5 「stone No.8」


作品ウェブサイト

須藤萌子の銅版画、ドローイング作品を紹介するサイトです。こちらもご覧ください。
『須藤萌子 版画とドローイング』