◆【セルフインタビュー】作家が記録 1

2022年2月11日

真実と組み合わせることで、より妄想は蠢きだす

2019年3月、静岡市金座ボタニカ・アートスペースで個展を開きました。
オープニングイベントで同県出身のデザイナー(実在)との対談で出た「妄想」の話をきっかけに、自身のこれまでの制作年をふりかえってみようとその後も記録をしつづけました。
そうしたところ、「自作自演のインタビュー記録」ができあがりました。

個展を初めて開いてから15年。
その間に出会った、人やコトをミキサーにぶち込んで出来上がった「ちょっぴり意地悪?なインタヴュア」とのインタビュー記録集です。(全5回予定)

制作のみちを歩むきっかけ「セザンヌ事件」

―自身が制作のみちをあゆむようになったきかっけは?

ー家族。月並みかもしれないけれど「家族」です。

子どものころは体が弱く、あまり自由に外へ遊びには出してもらえませんでした。
必然的に家族(大人)と過ごす時間が多くなるから、大人が好きなものを多く見て育つ。
学校では、同級生と楽しく過ごすのが本当に下手でした。

幼稚園では、スケッチブックをひとり一冊渡されました。
自分の描いたもので埋まると先生が表紙に花丸をつけて、新しい1冊と交換。
それが嬉しくて、なんとか通っていました。

ー高校生になると、学校でセザンヌの模写を描き家に持ち帰って見せたら
「本物を観こともないのに何を描いているの?」
と、祖母にバッサリ。
褒められると思って見せているわけだから、ショックも大きい(笑)。
「無茶を言うなよ。画集を観ながら描いてるんだからさ。」
と、反発を覚えました。

その後、しばらくして祖母に連れられフランスへ。
念願のセザンヌの作品を観ました。
自分の眼で確かめる筆跡や色、展示されている空間、それを観ている人、美術館のある街。
それら全部を感じて欲しかったのだな、と今では祖母の優しさを理解しています。

そんな祖母から、作品を褒めてもらった記憶はあまりないのですが、彼女が生きている間に、ひとつでも唸らせる作品を作りたかったです。

「絵では食っていけない」「芸術はすばらしい」を両方聞かされて

ーいわゆる「美大」へ進学はしなかったんですね。

ー絵を描くのが好き、そして可能な限り描かせてもらう環境にはありました。
でも、「食っていけないよ」とも言われていました。
芸術はすばらしいと気づかせてくれたのは家族ですし、好きなことを否定されていると分かっているから、親も子も苦しい。

高校3年生になり、進路を決める三者面談で、副担任の先生が親に言いました。
美術で食っていけないのは否定しません。けれど、飢え死にしたって話はここ最近聞いてないんで…。

むちゃくちゃに聞こえましたが
「そうですか…。」
って、親も言っちゃった。

そうなったら、祖母は
「何年留年してもいいから、藝大(東京藝術大学)へ行け」
と、言う。
今思えば、相当ありがたい条件ですよね。
でも、ピンとこなかった。

結局、美大へは行かずに地元の大学への進路を決めました。
しばらくは、個展を開くたびに
「どこの(美大)出身ですか?」
と、聞かれ続けるんだろうな、と感じていました。

三者面談で助けて(?)もらった恩師が高校教員だったので、まずは高校の美術教員になる勉強ができる環境を選びました。

次回は「作家が記録 2 ー美術の先生は暇じゃないー」

作品ウェブサイト

須藤萌子の銅版画、ドローイング作品を紹介するサイトです。
こちらもご覧ください。
https://sudohoko2016.wixsite.com/sudohoko