◆師匠との3年間 はじまり
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非常勤務職員として地方の市立文化施設に務めたことがある。
専門職での3年間、あっという間の出来事だった。
正直、「文化施設で働いていた」と履歴にするのは忍びないくらいだ。
非常職員というと、正規の職員の方よりも
責任はない
お給料は少ない
時間的束縛はない(ようである)
という「やりがいのある仕事と」いう一点突破のみで、後はないナイ尽くしの非情勤務だと思われてもしかたない。
でも、美術品や作家(存命でも亡くなられていても)を扱う責任は、
正規職員と同等かそれ以上
だという重圧が毎日あった。
ここからは、今後「学芸員になりたい」と漠然と思っていらっしゃる方へのお役に立てれば…
という話の流れでは一切ない。残念ながら…
「仕事がうまくいかないとき、至らなくてツライとき、ある人に出会ってちょっぴり救われた」という話である。
たまたま、そのとき勤めていたのが文化施設だった、というだけ。
扱うもの、出会う人すべてが予想外過ぎて憂鬱になる
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文化施設で働く前の話。
美術専攻で高校、大学と進学し、卒業後は制作を続けながら高校の美術講師をしていた。
「美術が続けられる幸せな家庭に育った」
「好きなものを仕事にできている」
と、いえば聞こえはいいのですが、
バッサリ言うと
「世間を知らなすぎる…よく今まで生き残ってきたな」
と、いったところ。
いままで周りの人は、どちらかといえば
「美術に理解がある人、好きなひと」が多い環境だった。
学校という職場も独特で、校長先生や教頭先生以外
「ほぼ同僚」
という、長ーーーい横列社会。
だから新任でも、主任でも、講師でもお互い「先生」っていう立場で会話ができた。
垣根がほぼない。
(みえてなかっただけかもしれないが。)
あとは、生徒さんも先生を「先生」って認識してくれていた。
だから結局、その関係に甘えてしまっていた。
ほかの会社や企業へ就職している同期の社会人と比べると
「立場や考え方の違う相手への対処」
が、圧倒的に稚拙だったと思う。
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気持ちを濁らせる
次の現場は文化施設といえども「役所の一角」、誰も(必要なこと以外)教えてくれない。
当然のこと、わたし自身、何を教えてほしいのかわからなかった。
「文化施設に勤めている人は、みんな芸術が好きで、理解があって当然だ」
と、思っていた。
いえ、まあ、実際に嫌いな人はいなかったと思う。
みんな、それぞれの温度があるだけ。
立場、考え方、見え方が、人の数だけ、職場にある。
でも、考え方の違いや温度差を感じたら、
「こちらの対処を変える」
という柔かさや、したたかさを持ち得ていなかった私は、すぐ人のせいにして失望しちゃうんですよね。
失望すると、人は気持ちを濁らせる。
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3年間お世話になる師との出会い
久しぶりに会った知人は、わたしをみるなり「うちへ来い」という。
引き合わされたのは、知人のお父様。
この後、
「目がくぼんでるなあ。」
「顔色もよくない。」
「よく食べて、よく飲んでるって?とめどもなく腹にいれてるだけと違うか?」
と、指摘される。
この出会いで、わたしはなんとか持ち直し、失望せず、職場の環境が変わるまでの3年間、勤めることができた。
最初の道しるべを、ようやく見つけた感じだった。
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